昭和の経営者の考えは
古いなどという識者たちこそ
不勉強で、浅薄で
哲学的思考ができない
うつけ者
と言えるだろう。

● 昭和の経営者たちの考えは古い、という軽薄な識者たちがいる。30年以上も前の経営者たちだから古い、という浮薄な識者たちがいる。

● それならば、キリストは2000年前の人、釈迦は、2500年前の人、孔子は2500年前の人、聖徳太子は、1500年前の人。これら偉人の考えも古いのか。

● 今なお、江戸時代の石田梅岩の『都鄙問答』が読まれ、明治時代の渋沢栄一の『論語と算盤』が、多くの経営者たち、ビジネスマンたちに読まれ、松下幸之助や稲盛和夫の著作が、多くの人々に受け入れられている事実を、どう説明するのか。これら先哲の考えも古い、という一言で、切って捨てるのか。

● 浮薄な識者たちは、なぜ、偉人先哲の考え、言葉が、今も多くの人々の心の支えになり、指針となり、また、彼らの著作が、多くの人々を惹きつけ、読まれ続けているのか、その理由を考えたことがあるのだろうか。

● 多分、浮薄な識者たちは、偉人先哲が、究極において「人間」を語り、「人としての生き方」、「人としてのあり方」を語っていることを理解していないのだろうと思う。

● 例えば、松下幸之助。昭和39年(1964)は、東京オリンピックの年であったが、アメリカのライフ誌は、9月11日号の日本特集で、そのなかで、「MEET MR.MATSUSITA」(松下さんに会おう)と題する特集を組み、掲載した。(昭和37年(1962)には、TIME誌の表紙絵になっている)

● そこで、松下幸之助は、温情的革命的温情主義者であるとともに、「最高の産業人、最高所得者、思想家、雑誌発行者、ベストセラー著者」と5つの顔を持つ人物として、「フォード(自動車王)とアルジャー(牧師兼作家)の2人を1人で兼ねているパイオニア」と紹介された。

● だが、いま、松下幸之助を産業人、経営者としか捉えず、その観点のみで論じ、批判する識者はいても、ライフ誌が紹介した「思想家・松下幸之助」の理念、哲学を理解し、その上に構築されている経営を論ずる識者たちは皆無と言っていい。多分、浮薄な識者たちは、松下幸之助の著作を、一冊も読みきっていないのではないか。

● 昭和46年暮、それまで20数年間、思考し続け、書きまとめ、また、思考し続け、書きまとめ、まとめ上げた松下幸之助は、思わず、「自分なりの人間観をまとめたから、もう死んでもいい」と呟いたことがあった。

● そして、翌年、それをまとめて単行本として上梓したが、経営の神様、商売の神様と言われていた松下の、その書名は、「経営を考える」でもなく、「商売を考える」でもなく、『人間を考える』であった。

● そこには、「人間をどう捉えるべきか」、「人間は、どう処すべきか」、「人間は、万物に対して、どのような責任があるか」、「人間の使命はなにか」が明確にまとめられ、書かれている。松下幸之助の経営の根底には、この「人間観」がある。浮薄な識者たちは、そのことが分からないだろう。

● 松下幸之助だけではない。渋沢栄一も石田梅岩も、もちろん、聖徳太子も孔子も、また、とりわけ、釈迦もキリストも、根底に「人間」があり、「人間」を語り、その「心のありよう」を伝えている。

● だからこそ、今もなお、多くの人々から共感をもって、求められているのではないか。ろくに偉人先哲の思想、哲学を学ばず、昔の人だから、古い、昭和の経営者だから、古いと言う、その浮薄の識者たちに、あなたたちこそ、読解力や洞察力のない、浅薄で、愚かな空(うつ)け者だと言いたい。

● 昔の人だから、古いのではない。「人間」に立って、人間を語り、経営を語っているから、だから、常に新しいのである。昔の人は古い、昭和の経営者は古い、と言うならば、昔の人以上の実績、昭和の経営者以上の実績をあげ、世界的に評価されている今の経営者を教えてほしい。

● 平成の経営者は、どうであったか。「カネ」を追いかけても、「人間」がない。自分の資産を計算しても、社会のことは、我関せず。だから、無残にも、日本経済を壊滅させてしまったではないか。

● むしろ、今一度、昭和の経営者たちの経営理念、哲学に立ち戻り、そこから、再出発、再構築をすべきではないのか。不勉強な、浮薄な識者たちの、得々とした、幼稚な発言に嘔吐すら感じている。

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