失敗は
当たり前
失望する必要もない
絶望する必要もない
反省して
思い切って立ち上がれば
絶望の淵は
案外と浅いものである。

● 人生というものは、おおよそ、失敗の連続、悩み苦しみの連続。それが当たり前だと思う。なにせ、明日がどうなるか。お釈迦様でも、神様でもない人間に、未知の明日が分かるはずもない。人生は、まさに暗闇を手さぐりで歩くようなものだ。

● だから、一生懸命、生きていても、歩いていても、暗中模索の人生。石につまずくのも当たり前、水溜りに落ちてしまうのも当たり前。壁にぶつかるのも当たり前。むしろ、上手くいく、成功することのほうが、稀有なことなのだと思う。

● ゆえに、失敗したから、壁にぶつかったから、水溜りに落ちたからといって、なにも失望する必要もなければ、まして、絶望する必要など、さらさらない。当たり前のことだ。

● もちろん、つまずかず、落ちることもなく、ぶつかることもなく、思うところに辿り着く、成功することもあるが、それは、むしろ、たまさか、運がよかった、まさに、「盲亀の浮木(もうきのふぼく)※注 参照」の例えの通りであろう。

● だから、石につまずき、水溜りに落ち、壁にぶつかって、失敗しても、なにも絶望することはない。人生、道はいくらでもあるものだ。

● ただ、暗闇の中で、なぜ、石につまずいたのか、なぜ、水溜りに落ちたのか、なぜ、壁にぶつかったのか。しばし考える。しばし反省をする。その「考えてみること」が大事。その「反省すること」が大事。

● そうして考え、反省し、その失敗を踏み台にして、次に成功すれば、石につまずいたことも、水溜りに落ちたことも、壁にぶつかったことも、失敗とは言えないことになる。

● だから、もし、つまずいたこと、落ちたこと、失敗したことを反省し、踏み台にして、結果として、思ったところに辿り着き、成功すれば、人生において、失敗などあろうはずがないと言えるかもしれない。

● 事実、松下幸之助さんは、ほとんどすべてにおいて成功している。もちろん、それは、失敗が絶無だということではない。幾たびも幾たびも失敗している。

● しかし、幾たびの失敗も反省し、新たな歩き方を考え、その失敗を踏み台にしたから、結果、成功したということである。言葉通り、「転(こ)けたら立ちなはれ。立ったら歩きなはれ」を実践したからである。

● 坂本龍馬が「人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。」と言ったというが、正鵠(せいこく)を射ていると思う。

● 明日どころか、一寸先も闇の道を歩いている我々は、つまずき、ぶつかり、落ちることが当たり前と思い定めて、反省しつつ、その失敗を踏み台にして、新たな歩き方を考え、成功の、納得の人生を歩いていきたいと思う。

● 要は、失敗しても、絶望することはないということ。「絶望の淵」は、案外と浅いものだということである。

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※盲亀の浮木(もうきのふぼく)=出会うことが甚だ困難であることのたとえ。 また、めったにない幸運にめぐり合うことのたとえ。(『雑阿含経』 『涅槃経』)

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