作為なく
自然の理に身を委(ゆだ)ね
意図的な、恣意的な心を
一切排して
生きていくのも
賢明かもしれない。

●『荘子(そうじ)』には、自由な生き方、内省的で超俗的な寓話が多い。だから、読んでいても、えっ⁈なるほど、こういう見方、考え方も出来るのか、と面白い。

● また、『荘子』は、「強者の思想」というより、弱い立場の者が、どう考えたらいいか、虐(しいた)げられた者が、どう自分を捉えたらいいか、いわば、「弱者の思想」が展開されているように思う。その一節(人間世編)に、次のような話がある。(江口克彦訳)

● 石(せき)という名前の、大工の棟梁が弟子を連れて出かけた。あるところまで来ると、ある社(やしろ)に、とてつもなく大きい櫟(くぬぎ)の木が聳え立っていた。

● その大きいこと、枝は、実に数千頭の牛を覆うほどであり、その幹の周囲は、100人が手を繋ぐほどの太さ。また、その高さは、まさにあたりの山々よりも高い。枝も太く、その枝々の一本で、十数隻の舟が出来るほどであった。

● その大木を見に来ている見物人は、市場に集まってくる人数を、はるかに超えている。弟子は、思わず、その巨大さに立ち止まり、見上げ、見回して、その立派さに感嘆暫し。それから、先に行っている棟梁を走って追いかけた。

● 追いついて、荒い息を吐きながら、棟梁に尋ねた。「私は親方に弟子入りしてから今日まで、こんなに素晴らしい大木を見たことがありません。それを、親方は、一瞥(いちべつ)すらせずに、通り過ぎてしまわれました。どうして、あのような見事な大木をご覧にならなかったのですか」と訝(いぶか)しげに問うた。

● すると、棟梁の石は、「生意気なことを言うな。あの木は、役に立つようなシロモノではないのだ。分からんか。あれで、舟をつくると、沈んでしまい、棺桶をつくると、すぐに腐り、器をつくれば、すぐに壊れ、門扉にすると、樹脂(やに)が出て、柱にすると、すぐに虫がつく。そういう役立たずの木だ。

● 使い道がないからこそ、誰も、切り倒したり、枝を折ったりもしない。だから、あのような大木になることが出来たのだ」と言った。

● という一節がある。この個所を読むと、なにも取り柄がない、なにも知恵がない、人付き合いが下手と嘆くこともないように思う。いや、小賢しい知恵や知識なら、身に付けないほうが、人生を全うすることが出来るというもの。自分の持って生まれた天分、本分をとことん発揮して終えることが出来る。

● そう考えると、あれやこれやと思い煩「わずら)うことなく、また、作為なく、ただただ、自然の理に身を委(ゆだ)ね、意図的な、恣意的な心を一切排して生きていくのが賢明というものかもしれないな、と思ったりする。

● ただ、この話は、さらに続く。棟梁の石が家に帰た、その夜、櫟(くぬぎ)の霊が夢に現れて、次のように言う。

●「お前は私をなにと比べて、あのように言ったのか。お前は私を、役に立つ木と比べているのではないか。だいたい、山査子

●(さんざし)や梨や橘や柚子の木は、その実がなると、もぎ取られ、辱(はずかし)めを受け、また、大きい枝は、へし折られ、小さい枝は、引きちぎられる。

● これは自分の長所、取り柄で、自分で自分のいのちを縮(ちぢめ)ていることと同じではないか。だから、天寿を全うすることが出来ず、若死する。

● そこで、私は世の中の役に立たないよう、重宝されないように心掛けてきた。この歳になって、ようやく役立たずだと認められるようになった。その役に立たないのが、私の天分、本分である。私の天分、本分を果たすことが出来たと満足しているのに、お前は、役立たずと軽蔑する。私の天分、本分がお前に分かるのか。

● まして、偉そうに、役に立つとか、立たないとか、上から目線で言っているが、お前のような能なしに、役立たずの木の真価が分かってたまるか」。

● 荘子が言う「無用の用」の寓話である。荘子は、ここで、人為を排し、「無為の為」で生きることを主張している。

● もちろん、このような生き方が現実に出来るものではないが、ときに、このような考え方をしてみてもいいのではないだろうか。

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